熊野古道・わー太平洋!2009年06月01日 22:21

新宮駅から車でちょっと走って、松林に車が乗り付けられました。
「ここも熊野古道です」と案内されました。

「えっ?」と、不審な私。
堤防を乗り越えると「わー~∽」思わず両手を広げ、大声を上げてしまいました。
そこには美しく、薄い水色の波が打ち寄せる太平洋が、どこまでもどこまで広がっていました。砂浜には白くて丸い石ころがごろごろ転がっています。

案内によると、ここも熊野古道の一部で、多くの法皇さまがこの浜を歩き、二つの石を拾い、一つは神に捧げ、一つは自宅に持ち帰ったのだといわれました。そこで私たちも形のよい石を探して二つ持ち帰りました。

そこは“王子ヶ浜"で、ほど近くに“王子神社"(浜王子)があり、ここが出発点だという説明を受けました。

「海は広いな大きいな・・・・」
いつの間にか歌が口をついて出てきました。

熊野古道・ごとびき岩へ2009年05月24日 16:58

この熊野の巨大な「ごとびき岩」に、初めて神様が降り立ったという伝説があり、祈りの場となっているようです。

やはりひと目見ておきたいと思い、ツアーの案内人に所望しました。折角だからと、快く引き受けてもらって、その場に立つことができました。

なんという岩ではないのですが、やはりその場に立つと祈りを捧げたくなります。それはやはり、有史以前(2000年?)から人々が祈りを捧げてきた場所だからでしょう。
不思議と世界各地に、大きな岩が信仰の場になっているのは、人類共通のなにかがあるとしか思えません。

そんなことで辛い石段を登り、人が余り通らない荒れた古道を歩いてよかったと思いました。
これもツアーの案内人のご厚意のよるものでありがたかったです。
今回熊野三社詣で、この古道を歩いたことはずっとこれからも記憶に残るものと思います。

熊野古道を歩く2009年05月22日 12:09

私たちはほんの少しだけ、熊野古道(中辺路)を歩く体験をしました。

本来なら近露王子跡から熊野本宮大社を経て、大斎原(おおゆのはら)までの24.4キロの行程なのですが、私たちは三軒茶屋跡から熊野本宮大社まで、約1時間歩きました。

この古道は、語り部さんと一緒に歩いたので、色々学ぶことがありました。かって本宮大社は熊野川の中州(大斎原)にあり、『現在の約8倍の規模を誇っていたと言う。明治22年に大洪水により現存する4つの社殿以外は全て流されてしまった。』これも、森林伐採によるものらしいです。

古道は整備されていました。
しかし私有の山が多く、勝手に木を切ることが出来ないので、県が古道の両脇2メートル(?)を買い取り枝払いしたそうです。

『』内は「熊野・高野・吉野」別冊「山と渓谷社」より。

熊野三社詣は石段との格闘2009年05月15日 10:41

どこもそうですが、「名所は高い所にあり」ですね。

いうまでもなく神社仏閣も石段を登りつめたところが多いようです。

最初にお参りしたのは、「熊野本宮大社」ですが、ここは熊野古道を1時間くらい歩いて石段を下りました。
そして「熊野那智大社」です。大門坂は樹齢800年といわれる夫婦杉、苔むした石段が続きました。

そして再び、石段を登り熊野那智大社へと歩きます。そこから「別宮飛瀧(ろう)神社」へと石段を下り続け歩ました。

「神倉神社(ごとびき岩)」へは、538段もある殆ど直立した石段で、振り返るとめまいがしそうなくらいでした。
私の場合は、石段を下りずに、「熊野速玉大社」へ向けて古道を歩きました。
その古道は人が通らないらしく荒れて、ごつごつと苔むした岩が行く手をはばむようで難儀しました。

いずれも石段との格闘でした。

熊野三社詣2009年05月13日 09:40

『熊野へ参るには紀路と伊勢路のどれ近しどれ遠し 広大慈悲の通なれば紀路も伊勢路も遠からじ』と平安末期に後白河法皇が編纂された「梁塵秘抄」に歌われているようです。

確かに今の時代車でちょこっと、はしょってお参りするには簡単なことなのでしょう。それでも多くの石段を登り、お参りするにはかなりの体力が必要です。

「蟻の熊野詣」という言葉が残っているように、身分を問わず多くの人が多くの困難を覚悟して参詣したようです。

何故なんでしょう。

それには時代の背景があったようです。平安末期、貴族が没落して行く不安の時代に、『折からの流行思想ともいえる末法思想である。現世での救いの道は鎖されている以上、死後の世界の往生を願ったのである。』

確かに現在も、不況で見通しがたたない今、また若い世代の参拝が目
立っています。

『万物に神が宿る浄土』自然物信仰、日本人が持っている心に、何かが応えてくれそうです。

『』内は立松和平文・熊野・高野・吉野(別冊・山と渓谷’04年8月15日発行)