「みつめる鍋はなかなか煮えない」2017年08月16日 18:02

タイトルは先月の中国新聞「球炎」に書かれていました。

この記事でふと思い出したのは、「お粥」のことです。

戦時中のことです。
いつも米粒が泳ぐようなお粥では、育ち盛りの私(11歳)は空腹でした。

母親が留守をした時、練炭火鉢に残ったお粥を煮詰めました。
煮詰めると、お粥になると考えたので、じっと鍋の底を見つめていました。
いくら経ってもお粥はお粥。

今なお、あのシーンを記憶しています。

「」内は2017/0724付け中国新聞より

「とと姉ちゃんに思う」(NHK朝ドラ)2016年06月29日 10:05

ドラマの始まった頃は、皆が穏やかな日常を送っていました。

最近は戦時色が濃くなり、息苦しくなっています。
召集や資材不足で次々と倒産する企業、店じまいを余儀なくされている。
深刻な食糧不足で、ありったけの衣類を持って食料と交換する。
などなど。

私は戦時中は子どもでしたので「ひもじい」ことと、空襲で警戒警報が鳴り、夜も眠れないことが多く辛かったこと。
勤労奉仕もありましたが、当たり前と思っていたので辛い記憶はなかったと思います。

しかし、大人はもっと、もっと大変だったのだなと思いました。
そして、大きな犠牲を払いました。

「平和がいちばん」だと、思うこの頃です。

素晴らしい先生との出合い2016年03月26日 11:03

今日も朝からいいお天気に恵まれて気分上々です。

そんな中YouTubeで音楽を聴きながら家事をこなしています。
{【合唱】卒業ソングメドレー}を。

ふと思い出したのは、国民学校2年生の時の事でした。
担任のI先生の言われたことは忘れたけれど、子ども心に何かを感じたのでしょう。父にその事を伝えました。

父は早速学校へ赴き、I先生に何か伝えました。
それからI先生の私への無視が始まりました。

そして3年生になりました。
担任の先生が変わりました。

先生は、どの生徒にも分け隔てなく優しく、明るく笑顔の絶えない先生でした。
そして、音楽が好きで私たちにいっぱい楽しい歌を歌って下さいました。
思い起こせば、その先生のお陰で音楽が好きになったのだと思います。

先生はある雨の日に、恐らく80㎝ぐらいあったと思われる大きな岩が、生徒の上に落ちかかる所をとっさに救い、ご自身は足に大けがされました。

厳しい戦時中でも、先生は特別に許可が下り、教壇に火鉢を置き足を温められていました。

本当にいい先生でした。お名前を忘れてごめんなさい。
二人とも女性の先生でした。

「県庁の広場に畑」2015年03月19日 11:25

最近、戦後70年を振り返る記事が、新聞紙上でも特集が組まるようになって来ました。

その中で「広島県庁広場が畑だった」(中国新聞)と。

私たちも終戦後(8ヶ月)、列車通学で被爆地市内の学校へ通う事になりました。

学校の門をくぐってすぐの場所に、私たちは原爆で焼かれた赤茶けた土を耕し、エンドウ豆を植えました。
そして毎日収獲して家に持ち帰り、厳しい食糧難の足しにしました。

そんな事もありました。

この記事は以前にも書きましたけれど。

奴凧2014年01月08日 16:36

1月3日「お正月」で取り上げた「凧揚げ、羽根突き云々」について、後日の新聞に面白い記事が載っていました。

[ふるさとの風景]
{[奴凧は]江戸時代の武家で働く使用人の姿がデザインされたものである。
中略 武家屋敷をはるか上空から見下ろすという、庶民のささやかな仕返しの意味がこめられていたという。}

そういう意味が込められていたとは、知りませんでしたね。

{}内は1月6日付け中国新聞より。