「被爆80年」2025年02月07日 14:04

中国新聞に「ヒロシマドキュメント被爆80年」に被爆直後からの記事と写真が掲載されています。

’25年2月4日の紙上では1948年5月29日『「食糧難で焼け跡耕作」』
これまで焼け野原の風景も掲載されていました。

私は原爆投下から8ヶ月後
’21年4月広島市内の学校に入学。

荒れ果てた街並み、食糧難、仮校舎。
校内の瓦礫を整理する作業.。
これら全て体験済みです。

しかし今なお記憶に残るのは、私たち皆希望に満ち、明るく元気に通学したこと。

これは戦争が終わり、これから安心して毎日の生活を送ることの出来る喜びが大きかったからでしょう。

「みつめる鍋はなかなか煮えない」2017年08月16日 18:02

タイトルは先月の中国新聞「球炎」に書かれていました。

この記事でふと思い出したのは、「お粥」のことです。

戦時中のことです。
いつも米粒が泳ぐようなお粥では、育ち盛りの私(11歳)は空腹でした。

母親が留守をした時、練炭火鉢に残ったお粥を煮詰めました。
煮詰めると、お粥になると考えたので、じっと鍋の底を見つめていました。
いくら経ってもお粥はお粥。

今なお、あのシーンを記憶しています。

「」内は2017/0724付け中国新聞より

「とと姉ちゃんに思う」(NHK朝ドラ)2016年06月29日 10:05

ドラマの始まった頃は、皆が穏やかな日常を送っていました。

最近は戦時色が濃くなり、息苦しくなっています。
召集や資材不足で次々と倒産する企業、店じまいを余儀なくされている。
深刻な食糧不足で、ありったけの衣類を持って食料と交換する。
などなど。

私は戦時中は子どもでしたので「ひもじい」ことと、空襲で警戒警報が鳴り、夜も眠れないことが多く辛かったこと。
勤労奉仕もありましたが、当たり前と思っていたので辛い記憶はなかったと思います。

しかし、大人はもっと、もっと大変だったのだなと思いました。
そして、大きな犠牲を払いました。

「平和がいちばん」だと、思うこの頃です。

素晴らしい先生との出合い2016年03月26日 11:03

今日も朝からいいお天気に恵まれて気分上々です。

そんな中YouTubeで音楽を聴きながら家事をこなしています。
{【合唱】卒業ソングメドレー}を。

ふと思い出したのは、国民学校2年生の時の事でした。
担任のI先生の言われたことは忘れたけれど、子ども心に何かを感じたのでしょう。父にその事を伝えました。

父は早速学校へ赴き、I先生に何か伝えました。
それからI先生の私への無視が始まりました。

そして3年生になりました。
担任の先生が変わりました。

先生は、どの生徒にも分け隔てなく優しく、明るく笑顔の絶えない先生でした。
そして、音楽が好きで私たちにいっぱい楽しい歌を歌って下さいました。
思い起こせば、その先生のお陰で音楽が好きになったのだと思います。

先生はある雨の日に、恐らく80㎝ぐらいあったと思われる大きな岩が、生徒の上に落ちかかる所をとっさに救い、ご自身は足に大けがされました。

厳しい戦時中でも、先生は特別に許可が下り、教壇に火鉢を置き足を温められていました。

本当にいい先生でした。お名前を忘れてごめんなさい。
二人とも女性の先生でした。

「県庁の広場に畑」2015年03月19日 11:25

最近、戦後70年を振り返る記事が、新聞紙上でも特集が組まるようになって来ました。

その中で「広島県庁広場が畑だった」(中国新聞)と。

私たちも終戦後(8ヶ月)、列車通学で被爆地市内の学校へ通う事になりました。

学校の門をくぐってすぐの場所に、私たちは原爆で焼かれた赤茶けた土を耕し、エンドウ豆を植えました。
そして毎日収獲して家に持ち帰り、厳しい食糧難の足しにしました。

そんな事もありました。

この記事は以前にも書きましたけれど。